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日本の歴史 明治維新 江戸幕府の滅亡

2021年07月05日

こんにちは。

 

今回から歴史について書いていきます。

江戸幕府の滅亡から日本が近代化をしていく一連の流れが「 明治維新 」とされています。

今回は江戸幕府の滅亡までの基本的な流れを勉強しましょう。

 

 

1853年に浦賀に「ペリー」が来航し、「日米和親条約」が締結される。さらには1858年に「日米修好通商条約」が締結されます。このことに不満を持った武士たちが諸外国、外国人を追い払おうとする「攘夷論」を支持するようになります。また、日米修好通商条約が天皇の承認を受けずに締結された条約だったために、幕府は天皇を軽く見ているとみられ、天皇を敬っている人たちにも反感を持たれてしまいます。この二つの考え方が合致し「尊王攘夷運動」となっていきます。

 

この「尊王攘夷運動」の中心にいたのが長州藩でしたが、政府や外国からもせめられてしまい攘夷は不可能と気づかされます。そこから、倒幕へとかわっていきます。

 

そして、長州藩と薩摩藩との間で「薩長同盟」が結ばれ、倒幕にむけて動き出し「第二次長州征伐」では幕府軍に勝利します。

「薩長同盟」とは、坂本龍馬などの仲介により結ばれた同盟。

「第二次長州征伐」とは、1866年に江戸幕府と長州藩との間に起こった戦い。このとき、長州藩の中心人物は高杉晋作。

 

「第二次長州征伐」後倒幕の動きが強くなり、ついに朝廷からは倒幕の密勅という幕府を潰す命令が下されます。

 

これによって追い込まれた江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」はこの倒幕の密勅を切り抜けるために政権を天皇に返しました。これを「大政奉還」と言います。

 

「大政奉還」後も徳川が権力を握れると考えていましたが、「王政復古の大号令」をだされ、武士による政治ができないようにされてしまいます。

 

これに反発した徳川慶喜は兵をあげますが、鳥羽・伏見での戦いに敗れて窮地に追い込まれます。この戦いにより、天皇の敵となった慶喜征伐のため薩摩・長州藩は江戸へ向かいます。

 

しかし、当時の江戸は日本の中心であったため、ここで戦争がおきると外国が日本に侵攻する機会を与えかねないということから、「勝海舟」、「山岡鉄舟」と新政府軍の「西郷隆盛」による会談の結果、江戸城を明け渡すことになりました。これを「江戸城の無血開城」といいます。

 

ついに江戸幕府は滅亡となりました。

 

その後、政府は「五箇条のご誓文」を発表し、近代化へと進んでいきます。

 

次回は明治維新。中央集権国家のはじまりになります。

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