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日本の歴史

歴史の問題 

2021年07月30日

 

明治維新①・②・③のまとめ問題

 

1853年にペリーが浦賀に来航し締結された条約はなんというか?

(  ①  )

 

外国・外国人を追い払おうとする考えと天皇を敬う考えが合致した運動を何というか?

(  ②  )

 

大政奉還をおこなった人物はだれか?

(  ③  )

 

1869年に各藩が所有している土地と人を天皇に返還させる政策をなんというか?

(  ④  )

 

1872年に近代的な常備軍をつくる為に導入されたのは?

(  ⑤  )

 

西洋とおなじく一般国民に対して全国一律の基礎教育を施す制度は?

(  ⑥  )

 

1877年に始まった士族の反乱をなんというか?

(  ⑦  )

 

また、( ⑦ )において士族のリーダーの名前は?

(  ⑧  )

 

 

 

 

 

 

 

①日米和親条約

②攘夷尊皇運動

③徳川慶喜

④版籍奉還

⑤徴兵令

⑥義務教育

⑦西南戦争

⑧西郷隆盛

 

日本の歴史 明治維新 士族の終焉

2021年07月20日

明治維新②はこちらから

https://ohsaki-gakuin.com/news/honbu/rekishi/1306.html

 

明治維新③

 

明治政府は西洋に対抗できる近代国家をつくるため、政治・経済・法律と、あらゆる分野で国の仕組みをかえていきます。

 

士族は江戸時代、さまざまな特権を与えられていましたが、近代国家には必要とされませんでした。

 

そして、士族は解体されていきます。

 

最初のうちは「秩禄」とよばれる年金のようなものを受け取って生活が保障されていましたが

明治政府に金銭的な余裕はありません。1876年、秩禄の支給が打ち切られます「秩禄処分」

 

さらに、外を出歩くときに刀を差していてはいけないという「廃刀令」がだされます。

 

「廃刀令」狙いは士族の武装解除にあります。

 

「秩禄処分」「廃刀令」を受け、士族たちの不満はさらに高まっていきます。

 

その不満が反乱をおこしていきます。

 

1874年 佐賀の乱(佐賀県)

1876年 神風連の乱(熊本県)

1876年 秋月の乱(福岡県)

1876年 萩の乱(山口県)

 

これらの反乱ののち、1877年に「西南戦争」がはじまりました。

 

士族のリーダーは「西郷隆盛」でした。

 

もともとは明治維新の中心人物でしたが、「征韓論」問題で大久保利通と対立し鹿児島へ帰郷し私学校を設立して軍事、思想教育を行っていました。

 

私学校生徒たちの武力反乱を抑えることができずに挙兵することになりますが敗北。

「西南戦争」は終結します。

 

この敗北により士族の没落は決定的なものになりました。

 

 

 

 

日本の歴史 明治維新 日本の近代化

2021年07月12日

 

明治維新②

明治維新①はこちらから↓↓

https://ohsaki-gakuin.com/news/honbu/rekishi/1270.html

 

戊辰戦争に勝利した明治政府は、天皇を中心とした中央集権国家をつくりはじめます。

早急に各藩に対する権力を強め、明治政府が実権を握る必要がありました。

 

そこで1869年に開始したのが「版籍奉還」です。各藩が所有している土地と領民の籍を天皇に返還させる政策で、すべての土地と民は天皇のものだと示しました。薩摩藩主と長州藩主が率先して変換すると、ほかの藩もこれに倣います。

そして1871年には「廃藩置県」を実施。全国の藩を廃止して、中央が管理する県と府に置き換えるものでした。

 

近代的な常備軍をつくろうと、1872年に「徴兵令」が導入される。

 

また、身分制度も江戸幕府下の「士農工商」を廃止し、「四民平等」が導入されました。

 

産業に関しては、1873年に「地租改正」が行われ、土地が私有となった。

*「地租改正」とは近代化には必要不可欠な税収の安定のため、収穫量ではなく収穫力に応じて決められた「地価」へと変更。また、物納ではなく金納に変更。また作物選択の自由も認められた。

 

「富国強兵」「殖産興業」のもと、政府主導の産業育成が始まり「富岡製紙場」をはじめとする、「官営模範工場」がつくられる。

*「富岡製紙場」とは群馬県富岡に設立された日本初の本格的な器械製糸の工場。また、富岡製糸場と絹産業遺産群として2014年6月の第38回世界遺産委員会において世界遺産に登録された。

 

また、貨幣制度も改められ、「円」が導入される。1872年には新橋駅から横浜駅において鉄道が開通しました。

 

強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち「義務教育」が開始され。また、高等教育や研究開発が必要となるため大学も整備されます。また、1872年に「学制」が公布され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整っていきます。

*「学制」とは日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。

日本の歴史 明治維新 江戸幕府の滅亡

2021年07月05日

こんにちは。

 

今回から歴史について書いていきます。

江戸幕府の滅亡から日本が近代化をしていく一連の流れが「 明治維新 」とされています。

今回は江戸幕府の滅亡までの基本的な流れを勉強しましょう。

 

 

1853年に浦賀に「ペリー」が来航し、「日米和親条約」が締結される。さらには1858年に「日米修好通商条約」が締結されます。このことに不満を持った武士たちが諸外国、外国人を追い払おうとする「攘夷論」を支持するようになります。また、日米修好通商条約が天皇の承認を受けずに締結された条約だったために、幕府は天皇を軽く見ているとみられ、天皇を敬っている人たちにも反感を持たれてしまいます。この二つの考え方が合致し「尊王攘夷運動」となっていきます。

 

この「尊王攘夷運動」の中心にいたのが長州藩でしたが、政府や外国からもせめられてしまい攘夷は不可能と気づかされます。そこから、倒幕へとかわっていきます。

 

そして、長州藩と薩摩藩との間で「薩長同盟」が結ばれ、倒幕にむけて動き出し「第二次長州征伐」では幕府軍に勝利します。

「薩長同盟」とは、坂本龍馬などの仲介により結ばれた同盟。

「第二次長州征伐」とは、1866年に江戸幕府と長州藩との間に起こった戦い。このとき、長州藩の中心人物は高杉晋作。

 

「第二次長州征伐」後倒幕の動きが強くなり、ついに朝廷からは倒幕の密勅という幕府を潰す命令が下されます。

 

これによって追い込まれた江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」はこの倒幕の密勅を切り抜けるために政権を天皇に返しました。これを「大政奉還」と言います。

 

「大政奉還」後も徳川が権力を握れると考えていましたが、「王政復古の大号令」をだされ、武士による政治ができないようにされてしまいます。

 

これに反発した徳川慶喜は兵をあげますが、鳥羽・伏見での戦いに敗れて窮地に追い込まれます。この戦いにより、天皇の敵となった慶喜征伐のため薩摩・長州藩は江戸へ向かいます。

 

しかし、当時の江戸は日本の中心であったため、ここで戦争がおきると外国が日本に侵攻する機会を与えかねないということから、「勝海舟」、「山岡鉄舟」と新政府軍の「西郷隆盛」による会談の結果、江戸城を明け渡すことになりました。これを「江戸城の無血開城」といいます。

 

ついに江戸幕府は滅亡となりました。

 

その後、政府は「五箇条のご誓文」を発表し、近代化へと進んでいきます。

 

次回は明治維新。中央集権国家のはじまりになります。

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